人生をシンプルに生き延びたいミニマリストのブログ

毎日やりたいことだけやって生きていく。ミニマリズムな生き方・考え方を綴ります。

知人の事故死。人の寿命について考える。

 

先日、某テーマパーク敷地内で事故があり私の友人の先輩のパフォーマーさんが亡くなりました。

私はその彼のことは昔大きなショーで何度か見たことがあり

世界で活躍するすごい人でした。

たまたま友人がFBでコメントをしていてニュースを見つけたのですが昨日自分のショーの仕事を終えて帰り支度する間際に飛び込んできた記事でした。

不特定の死亡と特定の死亡の違い

たまたまLineニュースで同じ内容の記事がトップにあったのですが、その時は全く気にしなかったんです。「ああ、そうなんだ」(さすがに有名テーマパークなのであれっという感覚で気にはなりましたが)という感じ。

人が一人亡くなったという事実は変わらないのに。それがたまたま確認すると近い人だったというだけでその事件をフォーカスすることになったのです。

これって誰にでも当てはまることだなと思う。

地球上から人一人亡くなったのは同じなのに。

遠い外国の戦争やテロで亡くなったりするのは遠い国の出来事として捉えてしまうように。

だからと言って何でもかんでもショックを受けていたら身がもたないと思いますが

命の重さは変わらないのに。なんだかよくわからなくなってしまいます。

突然の死はやっぱりショックだ

昨年は友人が1人突然死したのですが(もともと持病もちだったようです)最後に3ヶ月前に会って「じゃあ、またね!」って元気に挨拶したのが最後だったのです。

これもたまたまFBニュースで見ました。冗談だと思ったし、彼女の死については薬をやっていただのなんだのっていう人もいたそうです。やっていたとかいないとか私には関係なくて、やっぱりこの世からパッと消えてしまったんですよね。急にいなくなるのって嫌だなあ。病気や老衰ならある程度覚悟ができるけれど。いくらあの世があったり生まれ変わりがあったりしても急にいなくなるのはショックすぎる。

 ある日急に事故や病気で死んでしまう人もいれば自殺をする人もいて。

人がこの世からいなくなるっていうのは、どういう原因であったとしてもやはり寿命ということなのだろうか??

gendai.ismedia.jp

「16世紀に活躍したドイツの神学者ルターは、こう言いました。『明日世界が終わるとしても、私は今日リンゴの木を植える』と。

たとえ寿命が明日尽きるとしても、次の世代のためにこれをするのだと思えれば、寿命とうまく向き合えるのではないでしょうか。そうすると究極的には、寿命は一つの通過点になる。死ぬことですべてが終わるわけではないのですから」

「死」は恐れるものではない。寿命は生まれながらに決まっているのだ、それは一つの通過点にすぎないのだ、と考えれば、いまを生きる意味が見えてくるのではないだろうか。

いくら健康でもいつ死ぬかわからない

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若くて元気で生きていてもいつ死ぬかわかりません。

戦争やテロがなくても事故や災害で死ぬことも十分にあり得るわけです。

だけど人って普段これからもずっと続くと思って生きているので今を我慢して生きている人が多いのかなと思いました。(老後のためと思って貯金したりとか)

そう考えてみると、今めちゃ嫌な仕事やってても好きな仕事してても、好きな人と付き合ってても嫌な人と一緒にいても 急に人生が前触れもなく終わってしまうことは誰にでもあることなんですよね。

と、いうことは先のことを憂えているより、そして過去を引きずるよりも絶対今やりたいことをやる方がいいに決まってます。

そういうことを知人の死から改めて考えてしまいました。

なんだかうまくまとまりませんが、昨日からなんだかモヤモヤしてしまってとにかく文章に出してみたかったので書いてみた。またリライトしてみます。