人生をシンプルに生き延びたいミニマリストのブログ

毎日やりたいことだけやって生きていく。ミニマリズムな生き方・考え方を綴ります。

自己受容・自己肯定ができてない人はニート生活は試練として体験することなのかもしれない。

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絶賛ニート中です。
ニートとは、仕事をしない(家族の家事などを含め)ただ仕事をせず誰かに依存して生きている存在。

私はそういう意味でほぼほぼニートでしょう。(一応たまーに在宅で仕事したり、来月もパフォーマンスの仕事が決まった)
自己肯定感の高い人はニートとか全く「まあ、そういうこともあるよね」ってなるのでしょうが、

自己肯定感が低い人にとっては、ニートって、、自分の存在を認めるという試練なのかもしれない。
もしかしたら、それを乗り越えるためにニートになってしまったのかもしれない。とさえ考えました。

(ちなみにwikiによると、

ニートは15〜34歳までの非労働力人口のうち通学家事を行っていない者を指しており、「若年無業者」と呼称

らしいので厳密にはニートでさえない私

何もしてなくても、存在許可を与えること

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私は仕事してないし、家事してないし、ちょっと前まで病気だったんだけど、それも治ったので

何かしなくては

何かしなくては

何かしなくては、、、お金になることしなきゃ、、

と思って焦って仕事を探していたところはあります。(もちろん仕事ならなんでも言い訳ではないところが変なプライドなんだけど)
お金稼いでない=役に立たない
そう思ってしまうのです。
もしかしたら病気でニートになったのは自分のそういう

自己肯定感の低さを直すための課題

として与えられたのではないか??
なんて最近考えるようになりました。
赤ちゃんやペットはいるだけで、むしろ世話結構かかるけど、いてくれて嬉しい存在。
だけど大人になるとそういうの忘れちゃって、仕事できない、お金稼いでない、人のために何もしてない、、===私って役立たず、無価値
そういうサイクルの考えになってしまうので纏ってる雰囲気もなんだか暗ーいものになっているのかもしれません。

何もしなくても存在してていいんだと認める

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病気になった時、「ああ〜私ってやっぱ自己肯定感低いんだなあ」と感じたことが、病気で何もできないし、人の世話になってるし、家族の負担になってるし、人にも心配されたりして、私迷惑かけて存在してていいんだろうか。
もしくは直して恩返しをしなくてはいけないだろうか。なんて考えてしまいがちでした。
でも逆の立場であれば、別に家族が病気だったら支えたいと思うし、友達が死にそうだったら心配するのは普通に感じるかな〜と思ったんです。
何もしてないんじゃなくて、ただただ生きてくれればいいと思う。

自分のことになると見えなくなっちゃうんですよね。
困った大人だ。

または、自分の家族や友人などではない、赤の他人だったりに対しては「働くべきだよ」などと、「べき論」を振りかざす人になってしまうのかもしれない。
自己受容、自己肯定が本当にできれば、人に対しても寛容でいられるんじゃないかな。
と同時に、それができれば、他人に対して思いやりが出るし、いい社会になるのでは、、と飛躍しましたが、そう感じました。

そういうわけで、自己受容・自己肯定ができてないかも、、、他人にべき論を押し付けてしまってるかも、、って人はまずは自分に矢印を向けてみるのがいいのかな(できる人はニート体験してみて)